カム・テイスト・ザ・バンド/ディープ・パープル

パープルのファンなら誰でも知っていることだが、1968年の結成から76年の解散まで、活動は4期に分けれれる。中でもジョン・ロード、リッチー・ブラックモア、イアン・ペイス、ロジャー・グローヴァー、イアン・ギランというパーソネルの第2期(69年〜73年)の活動が最も評価されており、「イン・ロック」「マシン・ヘッド」「ライブ・イン・ジャパン」などの名作も多い。さらに、ベースとヴォーカルがグレン・ヒューズ、デイビッド・カヴァーデルに変わった第3期(73年〜75年)においては「紫の炎」という傑作が生まれている。
いずれにせよ、第1期から第3期までは、ジョン・ロードとリッチー・ブラックモアというパープルの2枚看板が存在していたからこそ、バンドの顔であるヴォーカルが替わってもパープル・サウンドが継承されたと言って良い。
メンバーチェンジを経ながらも「紫の炎」の出来についてはリッチーも満足していたようだが、次第にソウルやファンクに傾倒していくバンドに嫌気がさし、リッチーはレインボーに活動の場を移し脱退してしまう。その後、迎えたトミー・ボーリンはメンバー初のアメリカ人で、元ジェイムス・ギャングという経歴だった。
スライド・ギターやファンキーなリフを多用するトミー・ボーリンのスタイルはバンドに変化をもたらしたが、多くのファンはそれを良しとはせず、本作も当時は歓迎をもって迎えられたとは言い難い。ジョン・ロードは後年、「このアルバムはディープ・パープル名義で出すべきではなかった」という趣旨の発言をしているが、確かに本作をパープルの代表作とするにはいささか無理がある。
とはいえ、パープルの代表作が良くも悪くも「古典」となってしまったのに比べ、ソウルフルでファンキーな本作のアプローチは今日的にも十分満足できる内容だ。トミー・ボーリンは9曲中7曲の作曲に関わっていて、新メンバーにしてすでに中心的な存在になっているが、そのギター・プレイも実に充実している。
残念なことに、薬物依存症だったトミーの演奏は、75年来日時にボトルネックによるスライド・ギターに終始したため(左手を負傷したとアナウンスされていたが、実際は悪質なヘロインの注射によって麻痺していた)、日本での評価は散々だった。結局、彼は薬物の過剰摂取により翌年の12月に25歳の若さでこの世を去るが、本作のパフォーマンスが素晴らしかっただけに、本当に惜しまれる。
土屋ひとし公式ウェブサイト http://www.tsuchiya.jimusho.jp/